元号? クールじゃないジャパン
長い時と広い空間を超えて事象を考えようと思ったら、元号を使っていてはできないことに気づく。
たとえば、大正7年。
これっていったい何年前でしょう。
元号だけを使って何年前かを考えてみる。
まず、基礎知識として、最低でも、
大正は15年まであり、大正15年という年は途中から昭和1年になった、
昭和は64年まであり、昭和64年という年は途中から平成1年になった、
今は平成30年、
それを知っていなくてはいけない。
その上で、
昭和64年+平成30年=94年、だから94年前が大正15年か。
で、大正7年が何年前かを知りたいんだから、大正15年の何年前かを計算しなくてはいけない。
大正15年-大正7年、そうか8年前だ。
つまり、94年+8年=102年。
大正7年は、102年前だ。
かと思いきや。
昭和64年と平成1年がダブっているし、大正15年と昭和1年がダブっているから、実はその2年分をマイナスしなければいけないのだ。
94年-2年+8年=100年前。
実は100年前という、とってもわかりやすい数字だった。
元号3つ分という長く複雑な道のりを経て、ようやくたどり着いた時間把握。
一方で、単純に切れ目なく毎年1年ずつ増えていくだけの西暦を使って何年前かを考えてみる。
大正7年は西暦だと、1918年。
1918年はいったい何年前でしょう。
現在が2018年という記憶さえあれば、
2018年-1918年=100年
なんともわかりやすい計算で理解できる。たった2行で書けてしまった!
こうしてつらつらと書いてみると、
元号だけで時間を把握しようとすれば、
記憶力(元号の順番と期間)、
計算力(元号をいくつもまたぐときは悲惨)、
注意力(元年の最後と次の元号の始まりがダブっていることに配慮する)、
あるいは電卓やスマホを使いこなす能力(計算も記憶も面倒な人にはウェブ検索があるけど使いこなすのは実はむずかしい)、
これらの能力を駆使しなければならないことに気づく。
比較的現在と近い時間ですらこれなのだから、
織田信長が生まれた天文3年は、今から何年前だっけ?
といわれたらもう、何も見ないで元号だけを使って計算することはできない。
織田信長が生まれた1534年は、今から何年前だっけ?
といわれたら、2018年-1534年=484年と単純な計算ですぐにわかる。
そう、元号だけで事象を把握することは、事実上不可能だ。だから年表だって、元号だけでは書かれていない。
元号は理解することを阻害する。計算を途中でしなければいけくなると思考がそこで中断され、考えることに没頭できなくなってしまう。不便極まりない。
ただそれだけでも元号をやめるべき理由になる。
実際、新元号制定を前に、西暦化が進んでいる。
鉄道会社では、新元号制定に伴うコスト・混乱を避け、さらに増える観光客にもわかりやすくするため、切符を西暦表記化が進んでいるそう。
そして、元号を強制している国も、元号では公文書を管理しきれないと判断し、西暦に統一するらしい。でも庶民が利用する、役所関係の手続きなどの書類には元号を残すという…。
えぇぇぇ、ちょっと待ってよ、国が持て余している元号を庶民には強いるって、ひどくね?
合理性を追求していくと使えないことがはっきりしてきた元号。
なのに、庶民に強制する。庶民には、合理的に整理できない・考えられない元号を強いるのはなぜ?
天皇毎に区切る時間を使わせることで、誰が天皇なのかを常に知らしめるためだろう。
天皇がいる社会であることを重んじ不便を強いる、こんなのおおよそ民主的なやり方ではない。
民主主義が普及していく中で、世界的にすたれた元号制度。それが、日本にはある。
クールじゃないジャパン。
ーー 👇 元号は不便! マスコミ! 👇 ――
1)切符の日付、西暦表示に=改元機に一本化の動き-鉄道大手(時事通信、2018年3月3日)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018030300423&g=eco
2)省庁データを西暦に統一へ 証明書は元号継続(東京新聞、2018年5月22日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201805/CK2018052202000123.html
3)新潟日報、2018年5月5日